古唐津の歴史について
古唐津の窯跡について
唐津焼を生産した窯跡群
肥前の各地で唐津が焼かれたことがわかります
岸岳系 | 松浦党の領袖波多氏の居城があった岸岳山麓に分布する窯跡群。唐津焼創始期の窯跡群ですが、文禄3年(1594)波多氏の改易にともなって、廃絶したと考えられています。 |
飯洞甕下・上窯 | 佐賀県東松浦郡北波多村大字稗田字帆柱 |
帆柱窯 | 佐賀県東松浦郡北波多村大字稗田字帆柱 |
岸岳皿屋窯 | 佐賀県東松浦郡北波多村大字稗田字杉谷 |
小十官者窯 | 佐賀県唐津市梨川内大字小十官者 |
道納屋谷窯 | 佐賀県東松浦郡相知町大字上佐里字道納屋谷 |
平松窯 | 佐賀県東松浦郡相知町大字上佐里字平松 |
大谷窯 | 佐賀県東松浦郡相知町大字下佐里字大谷 |
山瀬下・上窯 | 佐賀県東松浦郡浜玉町山瀬上山瀬 |
松浦系 | 文禄・慶長の役後、佐賀県伊万里市周辺に開かれた窯跡群。岸岳陶工や、新たに渡来した朝鮮陶工たちによって操業されたと考えられています。 |
櫨の谷窯 | 佐賀県伊万里市南波多町高瀬櫨の谷 |
大川原窯 | 佐賀県伊万里市南波多町川原字権の木谷 |
椎の峰窯 | 佐賀県伊万里市南波多町府招字椎の峰 |
田代窯 | 佐賀県伊万里市大川町東田代宇甕屋 |
焼山上・下窯 | 佐賀県伊万里市大川町川原字焼山 |
甕屋の谷窯 | 佐賀県伊万里市大川町川原字神谷 |
市若屋敷窯 | 佐賀県伊万里市大川町川原字神谷 |
善徳窯 | 佐賀県伊万里市大川町川原字長野 |
道園窯 | 佐賀県伊万里市松浦町提川宇道園 |
阿房谷上・中・下窯 | 佐賀県伊万里市松浦町藤の川内字阿房谷 |
藤の川内窯 | 佐賀県伊万里市松浦町藤の川内字茅の谷 |
勝久窯 | 佐賀県伊万里市松浦町藤の川内字勝久 |
中野原窯 | 佐賀県伊万里市松浦町中の原字中通 |
岳野窯 | 佐賀県伊万里市松浦町中の原字岳野 |
金石原広谷窯 | 佐賀県伊万里市松浦町中の原字広谷 |
金石原窯 | 佐賀県伊万里市松浦町中の原字金石原 |
牟田原窯 | 佐賀県伊万里市松浦町中の原字中通牟田原 |
狼ヶ鞍窯 | 佐賀県伊万里市松浦町中の原字上分狼ヶ鞍 |
寺の谷鞍壷窯 | 佐賀県伊万里市松浦町中の原字寺の谷 |
寺の谷後家田窯 | 佐賀県伊万里市松浦町中の原字寺の谷 |
市ノ瀬高麗神窯 | 佐賀県伊万里市大川内町馬込字市ノ瀬 |
権現谷窯 | 佐賀県伊万里市大川内町大川内山字権現谷 |
牧の欅谷窯 | 佐賀県伊万里市大川内町吉田牧 |
平山上窯 | 佐賀県東松浦郡相知町平山上字櫨の谷 |
坊主町窯 | 佐賀県唐津市坊主町 |
唐人町窯 | 佐賀県唐津市町田庸人町 |
泣早山(長葉山)窯 | 長崎県佐世保市三河内町字前田多々良 |
猪ノ古場窯 | 佐賀県武雄市武内町西真手野宇猪ノ古場 |
本部小川内窯 | 佐賀県武雄市若木町本部字山崎 |
武雄系 | 佐賀県武雄市嬉野町周辺に散在する窯跡群。慶長の役後渡来した宗伝ほかの朝鮮陶工たちによって開かれました。 |
小峠前窯 | 佐賀県武雄市武内町東真手野字内田山 |
小峠奥窯 | 佐賀県武雄市武内町東真手野字内田山 |
一位ノ樹山窯 | 佐賀県武雄市武内町東真手野字内田山 |
葦の谷窯 | 佐賀県武雄市武内町東真手野字内田山 |
古屋敷窯 | 佐賀県武雄市武内町東真手野字内田山 |
金山谷窯 | 佐賀県武雄市武内町東真手野字内田山 |
内田大谷窯 | 佐賀県武雄市武内町東真手野字内田山 |
古那甲ノ辻窯 | 佐賀県武雄市武内町東真手野字平古場 |
川古窯の谷下窯 | 佐賀県武雄市若木町大字川古字山中 |
川古窯の谷新窯 | 佐賀県武雄市若本町大字川古字山中 |
山崎御立目窯 | 佐賀県武雄市武内町真手野字黒牟田 |
黒牟田高麗窯 | 佐賀県武雄市武内町真手野字黒牟田 |
黒牟田山(物原)窯 | 佐賀県武雄市武内町東真手野字黒牟田 |
宇土の谷窯 | 佐賀県武雄市武内町東真手野字宇土ノ谷 |
安田原窯 | 佐賀県武雄市武内町東真手野字多々良 |
錆谷窯 | 佐賀県武雄市武内町西真手野字広古良 |
祥古谷窯 | 佐賀県武雄市武内町東真手野字平古場 |
李祥古場窯 | 佐賀県武雄市武内町東真手野宇平古場 |
見上尾窯 | 佐賀県武雄市若木町大字川古字山中 |
焼峰窯 | 佐賀県武雄市朝日町字繁昌上多々良 |
内田皿屋窯 | 佐賀県武雄市東川登町永野字内田皿屋小山路 |
弓野山窯 | 佐賀県武雄市西川登町小田志字弓野 |
庭木山窯 | 佐賀県武雄市西川登町庭木山 |
小田志山窯 | 佐賀県武雄市西川登町小田志字小田志山 |
永尾窯 | 佐賀県武雄市中通町犬走字永尾 |
大草野窯 | 佐賀県藤津郡塩田町南大草野字山の神 |
百間窯 | 佐賀県杵島郡山内町宮野字板の川内 |
多久系 | 佐賀県多久市周辺にある窯跡群。金ヶ江参兵衛(李三平)ほかの朝鮮陶工たちによって開かれました。 |
高麗谷窯 | 佐賀県多久市西多久町松屋字山口 |
平戸系 | 佐賀県有田町・西有田町、長崎県佐世保市・平戸市・波佐見町・諫早市等に散在する窯跡群。巨関・金永久ほかの朝鮮陶工たちによって開かれました。 |
平戸御茶碗窯 | 長崎県平戸市川内町紙漉 |
原明窯 | 佐賀県西松浦郡西有田町原明字本谷 |
南川良原天目窯 | 佐賀県西松浦郡西有田町南川良原字南川良山 |
清六の辻一・二窯 | 佐賀県西松浦郡西有田町南川良原字清六の辻 |
小森谷窯 | 佐賀県西松浦郡西有田町大木字広瀬山 |
小溝山上窯 | 佐賀県西松浦郡有田町南川良原字小溝山 |
山辺田一窯 | 佐賀県西松浦郡有田町大字黒牟田字山辺田 |
木原地蔵平窯 | 長崎県佐世保市木原町字木原山 |
木原山窯 | 長崎県佐世保市木原町字木原山 |
葭の元窯 | 長崎県佐世保市木原町字前平小字古里 |
柳の元窯 | 長崎県佐世保市木原町字前平小字古里 |
土師の尾窯 | 長崎県諌早市小栗面字土帥の尾中道 |
村木不動佐上窯 | 佐賀県東彼杵郡波佐見町村木字不動住 |
永尾山高麗窯 | 佐賀県東彼杵郡波佐見町永尾郷字永尾山 |
永尾山窯 | 佐賀県東彼杵郡波佐見町永尾郷字永尾山 |
中尾山窯 | 佐賀県東彼杵郡波佐見町永尾郷字永尾山 |
牛石窯 | 佐賀県東彼杵郡新行江町小字牛石 |
古唐津の窯跡について
岸岳古窯跡群および御茶・窯跡
飯洞甕上窯跡
飯洞甕上窯は、焼成室間の段差が無く、割竹形の登窯でも最も古い形態の一つであることが確認されています。
本窯で多用される緑透色の土灰釉と透明釉は、その後に肥前西部地域に展開する唐津焼諸窯の主流となる釉薬で、窯構造・製品とも肥前陶器窯に直接繋がる窯跡として、重要な位置を占めています。
飯洞甕上窯跡の周囲は北波多村で公有化が完了し、前面に流れる小川とともに、当時の景観が良好に保存されています。
昭和30年1月1日に佐賀県史跡に指定されています。
窯跡周辺は、山林や小川、池など自然環境に恵まれ、遊歩道を完備した「古窯の森公園」として整備されています。
飯洞甕下窯跡
飯洞甕下窯は、全長18.4mをはかる割竹形の登窯で、焚口から窯尻までが完全に保存されています。
岸岳系古唐津窯の中では唯一、窯の上部構造である隔壁が残存しており、肥前系登窯の構造を研究する上で特に重要な遺跡です。
またその後の古唐津を特徴付ける、鉄絵装飾の初期製品が焼かれていることも特筆されます。
飯洞甕下窯の周囲は、金網のフェンスで囲われています。
窯跡は上屋で覆い、残存する上部構造を保護しています。
昭和30年1月1日に佐賀県史跡に指定されています。
現在は公有化を行い、周辺は、「古窯の森公園」として整備されています。
帆柱窯跡
窯体の勾配角は約21度で、全長は水平距離で約30mあります。
焼成室1室の規模はほぼ2×2mであることから、その数は14室程度になると考えらています。
出土した陶器は、皿・碗・小杯・瓶・杯台などで、藁灰釉製品がその殆どですが、一部透明釉の物も存在します。
窯道具はトチンのほかにハマも出土しており、同じ藁灰釉製品を多く焼成する皿屋窯との相違を示しています。
確認調査後は山砂により埋め戻し保存し、周囲一帯は文化財敷として佐賀森林管理署より借地しています。
窯跡周辺は、国有林で良好な自然環境が残っています。
昭和30年1月1日に佐賀県史跡に指定されています。
皿屋上窯跡
皿屋上窯は、焼成室を分割する隔壁を持たない無段・単室の窯で、現在までに確認されている肥前古窯跡の中で、この構造をもつものは本窯跡だけです。
ここで焼かれた製品は、全て甕・壷・徳利などの叩き成形の貯蔵器であり、岸岳系古唐津窯のなかでも特異な位置を占めています。
さらにその窯構造・製品とも李朝甕器窯と酷似し、まさしく朝鮮半島の直接的な影響のもとに築かれたことが判る重要な窯と、高く評価されています。
窯跡は溜池に接して、その北斜面に築かれており、全長約16.4mあります。
焼成室の一部は村道により削平されているが、窯尻及び燃焼室は良好に保存されています。
皿屋窯跡
皿屋窯は全長23.5mの登窯で、10又は11の焼成室を持っていました。
焼成室の平面は、火床境部分がごく僅かに絞られています。
一方この窯では、釉剥ぎの胎土目積という特異な窯詰方法が採用されており、製品・焼成技術の上でも、様々な特徴を持つ早期古唐津窯です。
窯跡本体はすでに公有化を行っており、平成11年に北波多村史跡(平成17年1月1日より合併に伴い唐津市史跡)に指定しています。
御茶・窯跡
御茶・窯跡は、連房式登窯で現在長27.5m、焼成室7+数室が残存しています。
窯壁面、焚口部分の残りもよく、天井部もほぼ全体が遺存しています。
焼成室の規模、傾斜等の詳細な調査はされていませんが、胴木間の幅は小さく上部の焼成室幅は大きくなり、末広がりの扇面の形をしています。
また、年代幅の中で変化の跡も認められています。
大正年間まで中里一族により使用されており、その後も中里一族により保全がなされています。
平成7年に市史跡に指定されています。